475.日本7周目その69:南山城と浦添城


 平成30年06月08日12時からスタートです。


 南山城(なんざんぐすく/なんざんじょう)です。

 南山城は、沖縄県糸満市大里1901にある城跡です。

 城門周辺は、布積み石垣となっています。


 城壁の外側を歩きます。

 南山城は、琉球三国志時代の南山王・承察度(うふさっと)により築かれたと伝わります。

 その後、南山城を主城として城下町を形成し、南山の中心地(首都)となっています。


 樹木と一体化した石垣も良いですね。

 本土が南北朝時代を迎えている頃、西暦1429年に琉球統一を目指す尚巴志王(しょう はしおう)に攻め滅ぼされました。


 南山神社(なんざんじんじゃ)の鳥居です。

 南山神社は、南山城跡の一画にある神社です。

 南山神社は、昭和05年(西暦1930年)の創建と若い神社ですが、歴代の南山王を祀っています。


 こちらは本殿と思われます。


 南山城は、現存している遺構は少ないようです。

 城域の主の部分が南山神社となっており、西側は糸満市立高嶺小学校のグランドと繋がっています。

 城域南側が道路を挟んで糸満市立高嶺中学校となっています。かつての城跡に大規模な公共施設を建築するのは本土も沖縄も同じようです。


 城内に一段高くなっている場所があり、城址碑があります。


 石造りで横長の建造物です。お墓でしょうか。白銀堂と同じく拝所(ウガンジュ)でしょうか。

 背には石垣が見えます。


 南山城跡一帯は、立派なガジュマルが沢山あり、おきなわの名木百選【南山城址緑陰のガジュマル】に選ばれています。

 おきなわの名木百選は、平成14年(西暦2002年)から沖縄県が主体となって公募している100選です。年々追加型の100選となります。私が県民だったならきっとチャレンジしてただろうな!


 続けて浦添城(うらそえぐすく/うらそえじょう)を散策です。

 浦添城は、沖縄県浦添市仲間山川原にある城跡です。

 現地は、浦添大公園として整備されているので駐車場に車を止めて散策します。


 「ディーグガマ」と案内されています。

 元々鍾乳洞があった場所が陥没してできた御獄(うたき)と案内がありました。


 浦添城は、標高約130mの小高い丘陵にあるので展望も良好です。


 浦添城は、琉球三国志の一つ・中山(ちゅうざん)の王宮が首里城に移される以前の13世紀〜15世紀の200年余り中山の王宮だったとされています。

 慶長14年(西暦1609年)に薩摩藩による琉球侵攻で陥落し、その後廃城となったと伝わります。


 その後、大東亜戦争時代末期のの沖縄防衛戦でも日本軍が防衛拠点として死守したため、三週間に渡る激しい攻防が行なわれた戦場となったと伝わります。


 駐車場に戻って、階段を降りていくと「浦添ようどれ」です。

 「浦添ようどれ」は、浦添城跡北側中腹にある琉球王国の陵墓です。英祖(えいそ)王と尚寧(しょうねい)王の陵墓と案内されています。


 途中、バリバリと音がするので見上げてみると、あれか。


 最近ニュースで良く反日団体のヤリ玉に挙げられているオスプレイさんじゃないですか。結構、音凄いんだね。

 私はオスプレイに関わらず、日本は、何するかわからないロシア、中国共産党、南北朝鮮に囲まれている以上、防衛力・抑止力を強化して欲しいと考えている平和主義者です。

 海に囲まれた日本にとって海上防衛が重要であることは明白で、そのためには離島防衛に拠点となる基地は必要だと思うんですよね。基地負担と離島振興をセットでバランスよく政治をして頂ければと思います。


 整然と積み上げられている布積み石垣が美しいですね。陵墓というより砦に見えます。

 日米決戦の戦場になった以上、この状態で現存しているはずはなく、復元なんだろうけど、こういう復元ならばとても良いと思います。


 右手前側が英祖王のお墓で、左奥が尚寧王のお墓と案内されています。

 英祖王は、13世紀の中山王で、浦添ようどれを築造した王とされています。

 尚寧王は、慶長14年(西暦1609年)の島津侵攻に対して首都決戦をせず降伏、首里城を開城した王で、江戸まで連行されて2代目将軍・徳川秀忠に面会しています。


 こちらの陵墓の内部は「浦添グスクようどれ館」で見れるみたいです。

 私は時間切れで立ち寄っていませんが、月曜日休館日の午前09時〜午後05時、拝観料100円のようなので興味ある方はどうぞ。


 今回の沖縄の城跡めぐりはここでお仕舞いです。

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