447.日本7周目その42:小倉城を登ろう!
平成30年05月28日の午後からです。 |
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テレビ西日本に立ち寄って記念メダルを購入しました。 |
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未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選【津屋崎千軒】を訪ねます。 津屋崎千軒(つやざきせんげん)は、福岡県福津市津屋崎にある漁村風景です。 |
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先程立ち寄ったテレビ西日本で購入した割引お弁当を食べてから少しだけ散策します。 |
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津屋崎千軒のシンボルとなる「藍の家」は、明治34年(西暦1901年)建築の染物屋の建物をギャラリーなどとして利用されています。 かつて解体の話が持ち上がったそうですが、地域の人々の熱心な保存活動に心打たれた持ち主の方のご厚意で、福津市が無償で譲り受けたとのこと。 正直な感想として、特筆すべき点は見当たらなかったかな。重伝建のような街並みではあるけれども、後一歩足りない感じの100選でした。 |
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北九州市に向かって東進します。 新・日本街路樹100景【中原−日明通り】です。 中原−日明通りは、北九州市の主要道路にある街路樹道です。 |
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北九州市戸畑区の中原(なかばる)と北九州市小倉北区にある日明(ひあがり)を繋ぐ道路です。 年末(平成26年12月30日)に訪問した際は、丸裸の寂しい街路樹となっていましたので再訪です。 |
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続・日本100名城【小倉城】を訪ねます。 小倉城(こくらじょう)は、現在の北九州市小倉北区にある城跡です。 |
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小倉城は、永禄12年(西暦1569年)に中国地方の覇者・毛利氏が九州上陸を果たし、築城したのが始まりとされています。別名として勝山城です。 豊臣秀吉の時代に、毛利(森)勝信(もうり かつのぶ)が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、江戸時代初期に細川忠興が南蛮造の天守などを建てたと言われています。 |
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その後、細川氏は現代の熊本県に転封となり、小倉城は江戸時代を通じて小笠原氏の居城として存続しましたが、第二次長州戦争で破れ、小倉城は、焼失しています。 昭和34年(西暦1959年)、鉄筋コンクリート構造で天守が外観復元されました。 |
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入場料350円を払って続・日本100名城【小倉城】のスタンプを回収です。 認定証もこちらに掲示されていました。 |
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2頭の虎の絵が印象的です。 1階にあるのがオスの「迎え虎」、2階にあるのがメスの「送り虎」です。有料エリアも一部は撮影OKとカメラマークが付けられています。 |
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大きな太鼓があります。 こちらの太鼓は、直径120p、長さ160pの太鼓で、ケヤキの一本造りで、中を刳り貫いたものだとか。 説明書きには「藩政時代に小倉城天守閣の最上階に置かれており、事あるごとに城下の人々に急を告げていたと伝えられている」と書かれています。 |
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ここでも茶平工業さんのメダル回収です。 |
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復元天守からの展望です。 水堀が残っています。小倉城はかなり大規模な城郭で海城だったと伝わりますが、現在は本丸跡+α位しか縄張りが残っていません。 |
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鯱と睨めっこ。 |
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ゆるキャラブームはいつまで続くのかな? 「とらっちゃ」です。虎の絵もあったので、小倉城は虎推しなんだろうと思って調べると、平成21年(西暦2009年)に小倉城再建50周年を記念して誕生したゆるキャラです。 頭の模様は、小笠原家の家紋である三階菱になっています。趣味は、ぬか漬けを作って食べること。結構渋い趣味です。 |
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和布刈(めかり)公園から関門海峡と関門橋の展望です。 |
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ここは、九州最北端の太刀浦(たちのうら)埠頭です。 私有地となるため、中に入れないので、門司港運3号上屋が見える場所が一般国民が到達可能な九州の最北端となります。ただこちらは、人口の埋め立て地となるため、天然の岬に「九州最北端の記念碑」でも建立してくれたらなぁと思っています。 |
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日本の灯台50選【部埼灯台】&条約灯台13基【部埼灯台】です。 部埼灯台(へさきとうだい)は、北九州市門司区企救半島の北東端の部埼に建つ灯台です。 |
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部埼灯台の初点灯は明治05年(西暦1872年)01月22日です。 リチャード・ヘンリー・ブラントンさんの設計です。江戸幕府がイギリスと約束した大坂条約によって建てられた5つの灯台のうち1つです。 |
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現地はぐるっと迂回するようなルートで訪問する形になります。観光地という感じではありません。 |
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現地には、僧清虚(せいきょ)火焚場跡と石碑があります。 石碑横の説明版には、大分県国見町出身の清虚という僧が、海難防止のために、天保07年(西暦1836年)から亡くなるまでの13年間に渡ってこの地で火を焚き続けていたことが書かれています。 |
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