1230.鹿伏兎城を登ろう!


 令和07年12月11日09時からのスタートです。


 神福寺(しんぷくじ)です。

 神福寺は、三重県亀山市加太市場(かぶといちば)1718-2にある臨済宗東福寺派の寺院です。

 神福寺は、寺伝によると、至徳元年(西暦1384年)に加太定俊(かぶと さだとし)が創建したと伝わります。加太定俊は、平重盛(たいら の しげもり)の後裔を称していました。加太氏(かぶとし)の菩提寺と伝えられています。


 神福寺の境内前に鹿伏兎(かぶと)氏菩提所と書かれた石碑と鹿伏兎城の案内板があります。

 案内板自体がかなりの劣化をしていますが、かつてこの神福寺の左手側から鹿伏兎城の登城口があったそうですが、現在は機能していないようです。


 神福寺から300mほど西に歩くと、「故陸軍歩兵伍長山路倉之輔君碑」と刻字された石碑があります。

 この石碑を目印に鹿伏兎城の登城口があります。


 私は初見ですが、妻は2回目なので事前情報があります。

 線路を超えて進むと、池と出会います。ここで左右どちらにも道があるように見えます。


 向かって右に進むと小さな祠を経て、何かの建物跡と思しき石塁と出会います。

 妻が記憶にないと言っているので、あ、もう別ルートに入ったか。


 そのまま素直に進むと大きな岩があり、登と尾根に入ります。

 この先に小さな祠群があり、この祠を見た覚えが妻が言うので、恐らく最初の池を左に進めば別ルートでここの祠群で合流できるようになっていると思われます。


 登っていると、また左と上に登る分岐がありましたが、妻に従い左に進み、しばらくすると石垣と出会います。

 なんか新しくない?積み上げも不自然に見えます。これは現存遺構だろうか。


 鹿伏兎城は、詳細は不明ながらも南北朝時代から室町時代にかけて築かれた城郭で、標高263mの牛谷山山頂に位置しています。

 天正11年(西暦1583年)に織田信長が本能寺の変で倒れた後、織田信雄と信孝との跡目争いが起こり、当時の当主・鹿伏兎定義は信孝方に与したため信雄方の羽柴秀吉の軍勢に攻められ落城し、その後廃城となったと伝わります。


 石垣の隣に、鹿伏兎城で唯一出会ったの案内板があります。

 「いまも涌井(井戸)、石垣、土塁等を残し〜」と教育委員会が案内していますが、この石垣はちょっと不自然に思います。後世に手が入っているように思えます。


 案内板の裏手に桝形虎口があります。

 写真だと少々わかりにくくなりますが、現地ではハッキリ認識できます。


 土塁です。


 主郭部と思われる曲輪を囲うように土塁が組まれています。

 主郭部と思われる曲輪の隣に広めの曲輪と小さ目な曲輪が2つあります。


 小さ目な曲輪の先にも赤テープが付いていたので、ここから石垣手前の分岐に戻るのかと思い、進みまました。

 赤テープに従って進んでいたつもりが、結構な急斜面を下る羽目になりました。


 こっちは、神福寺横から進むかつての登城ルート跡だったようで、神福寺の墓地に出てきました。


 無事戻ってこれて良かった。参拝していきます。

 こちらの神福寺は、鹿伏兎氏の居館跡に建立されたと伝わっています。

 鹿伏兎城は、比高はそれほどではありませんが、ルートが複雑に分岐しており、赤テープもそこら中にあるので迷子になりやすいです。初心者向きではない感じの山城でした。


 奈良県宇陀市に移動して、新しく配布開始された3枚の歴まちカードをめぐります。

 室生地区の宇陀市観光案内所で歴まちカードを頂きます。

 宇陀市観光案内所では、ご当地靴下をお勧めしていましたが、ちょっと割高かなぁ。


 古市場地区の「カエデの郷ひらら」で歴まちカードを頂きます。

 「カエデの郷ひらら」は、奈良県宇陀市菟田野古市場135-2にある旧宇太小学校跡地を利用した施設です。

 現地では、世界のカエデ1,200種3,000本を集めたと紹介されていますが、紅葉のシーズン以外はどうするんだろうか。


 道の駅「宇陀路大宇陀」に立ち寄って歴まちカードを頂きます。

 国土交通省近畿地方整備局の案内によると、予定配布枚数が各配布場所で10,000枚で合計30,000枚の配布となっています。

 中国地方や四国地方の歴まちカードの配布枚数は各3,000枚でしたので、宇陀市が急にやる気になって驚いています。


 美ノ吉さんです。

 前回一見さんで利用しましたが、妻がとても気に入っており、再訪です。


 今回はカレーうどんのセットを頼みました。美味しかったです。ご馳走様です。

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